第27回 J. S. バッハの教会カンタータ(その2)

(バッハの生前に唯一出版された教会カンタータ、BWV 71の表紙。曲種にあたる部分には「教会モテット」とある)
前回の記事では、バッハの教会カンタータの背景をお話しました。
今回はバッハ自身の教会カンタータが、彼の人生の中でどのように変遷していったかについてお話しいたします。
ミュールハウゼン時代の教会カンタータ(23歳頃)
バッハは23歳の頃の1年間、ミュールハウゼンの聖ブラジウス教会のオルガニストを務めました。現在伝えられているカンタータの中で最も初期のものは、この頃に書かれたとされています。
BWV4.131.106.71.196の5曲がこの時期に書かれたとされていますが、成立年代が確定しているのは71番だけで、その他の4曲は、様式的に推定されているに過ぎません。
この5曲はどれも伝統的なモテト様式、教会コンチェルトの様式の影響を色濃く残しており、全体として古めかしい様式で書かれていますが、どの曲も現在でも大変人気のあるカンタータです。
ここでは例として106番を挙げておきます。リコーダー2本、ヴィオラ・ダ・ガンバ2本という編成上演奏会数はそれほど多くありませんが、「哀悼行事」の名で、バッハの没後も人気を保った数少ないカンタータの一つです。
"Gottes Zeit ist die allerbeste Zeit (Actus Tragicus)" BWV 106
ヴァイマール時代の教会カンタータ(24歳―32歳)
バッハは24歳からの9年半をヴァイマールで過ごしました。この時期に彼はヴィヴァルディを始めとしたイタリアの音楽を学びました。この時期以降のカンタータに見られるコンチェルト様式はこの「イタリア体験」の賜物だということが出来ます。特に、ライプツィヒ時代になってから見られる「合唱組み込み」の様式は、この器楽のコンチェルトの独奏部分に合唱を組み込んだもので、この様式はバッハのカンタータの冒頭合唱の重要な特徴となっていきます。
またミュールハウゼン時代のカンタータが合唱とアリオーゾの羅列として構成されていたのに対して、この時期のカンタータはイタリア風のレチタティーヴォとアリアの交代という方法が確立されます。これにはバッハの使用したカンタータ台本の画期的転換が大きく関わっています。
1700年、牧師であり詩人でもあったエルトマン・ノイマイスターが、ヴァイセンフェルスの宮廷礼拝堂のために書いた、「教会音楽に代る宗教的なカンタータ」という台本集によって、イタリア・オペラの形式「レチタティーヴォ―アリア」を教会音楽に持ち込ん