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第24回 J. デ・プレ「オケゲムの死を悼む挽歌」

第2回定期演奏会のプログラムについて

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第24回 J. デ・プレ「オケゲムの死を悼む挽歌」(この記事)


 

 今回は第2回定期演奏会で、メインプログラムであるバッハのモテットのひとつ前に演奏いたします、ジョスカンの「オケゲムの死を悼む挽歌」についてお話しいたします。

 

Josquin des Prez ジョスカン・デ・プレ(ca.1440-1521)

 ジョスカンは言わずと知れたルネサンス期の大天才、1550年以前で最も重要な作曲家です。「バッハ以前に、バッハに匹敵する作曲家を1人挙げよ」と言われれば、私は迷いなくジョスカンを挙げます。

 ジョスカンの生涯もまた、オケゲム同様多くは謎に包まれています。特にその前半生についてはほとんど何もわかっていません。「オケゲムの死を悼む挽歌」はJ. モリネの作詞ですが、この詩や、G. クレタンの書いた哀歌などから、オケゲムとジョスカンの師弟関係が想像されますが、それも確かなことはわかりません。

 イタリア・ローマで枢機卿アスカニオ・スフォルツァに仕え、教皇の礼拝堂でも任務についた記録がある他、フランスのルイ12世との関係や、フェラーラに滞在した際には「ミサ・フェラーラ公エルコレ」を作曲したとされています。

 このフェラーラでは、ジョスカンイザークとの関係で興味深い書簡が遺されています。フェラーラ宮廷には音楽について発言権を持つ2人の廷臣がいて、その二人が大公エルコレに対し、フェラーラの礼拝堂楽長に、それぞれ別の音楽家、すなわちジョスカンとイザークを勧めたのです。

 イザークを推す廷臣の書簡には「イザークの方が性格が良く、多作だし、こちらが望んだ時に曲を書いてくれる」とあります。それに対しジョスカンは確かに上手に作曲するが、気が向いたときしか作曲せず、おまけに高給取りだと主張しているのです。

 結果的にジョスカンが選出されることになるのですが、このエピソードは、二人の作曲家のキャラクターを知る上で貴重な情報を提供してくれています。

 1503年、ペストが流行したことで、ジョスカンはフェラーラから脱出します。その後コンデのノートルダム大聖堂で首席司祭に就任しました。

 晩年に関しても多くは知られていませんが、ジョスカンは1521年8月27日に亡くなりました。彼は死後自分の記念行事が行われるようにし、彼の家の前で、彼の作曲したモテット「天におられる私たちの父よ/アヴェ・マリア」を歌うようにと指定しました。

"Pater noster / Ave Maria"

 

“La deploration de Johan.Ockeghem”「オケゲムの死を悼む挽歌」

全編コロルによる記譜

 この作品は、前述のようにオケゲムの死に際し作詩されたJ. モリネの詩をテキストとして作曲されました。

 なんといってもまず譜面の見た目が強烈なので、まずはこちらからご覧ください。

まっくろです。強烈です。なぜならジョスカンの時代に用いられていた記譜法は、白色計量記譜法だからです。つまり通常以下のような見た目をしています。