第19回 H. シュッツ 「音楽による葬儀」 その1
第2回定期演奏会のプログラムについて
第19回 H. シュッツ 「音楽による葬儀」 その1(この記事)
第23回 J. オケゲム「憐れみたまえ/死よ、お前は傷つけた」
今回から、5月に行われる第2回定期演奏会
『Melete Thanatou―死が照らし出す生の輝き』
で演奏する曲目についてお話ししていこうと思います。
まずプログラム前半に演奏いたしますのは、H. シュッツの「音楽による葬儀」“Musikalische Exequien” op. 7, SWV 279-281です。この作品はドイツの音楽史上においても、また彼の人生においてもエポックメイキングな作品です。
ハインリヒ・シュッツという人
ハインリヒ・シュッツHeinrch Schütz(1585-1672)は、バッハ以前のドイツ音楽を語る上で避けては通れないランキング1位であろうと思います。しかし名前自体は有名ですが、そんなに頻繁に演奏されるわけでもありませんし、おそらくどんな人だったか具体的にイメージがつく人は少ないのではないかなと思います。この人の存在がこの後のドイツ音楽の在り方を決定的に変えたといっても過言ではないので、その人生を知ることは、この後のドイツ音楽を知ることにつながると考えられます。

1.成年期まで
生い立ち
彼はJ. S. バッハが生まれるちょうど100年前、1585年にドイツはテューリンゲンの小さな村、ケストリッツという町で生まれました。父親はそこで宿屋をやっていましたが、シュッツ5歳の時、家族ともどもヴァイセンフェルスに移り住み、そこでも宿屋を営んでいました。
ヘッセンでの学び
ヘッセン-カッセル方伯モーリツが幼いシュッツをみそめたのはこの宿に伯が宿泊した際でした。伯はシュッツの歌を聴いて、その音楽的才能に惚れ込み、自らの手元に置いてさらに才能を開花させようとしたのでした。
ヴェネツィアへの留学
シュッツに、当時のイタリアの巨匠ジョヴァンニ・ガブリエリのもとで学ぶことを勧めたのもこのモーリツ伯で、(両親の反対を押し切り)奨学金を出して、シュッツをヴェネツィアに留学させたのでした。
ちなみにジョヴァンニ・ガブリエリの伯父、アンドレア・ガブリエリは、フランドル派の音楽家アドリアン・ヴィラールトに師事したと言われ、このヴィラールトはジャン・ムトンの弟子でした。というわけでここに、
ムトン→ヴィラールト→A. ガブリエリ→G. ガブリエリ→シュッツ
という錚々たる顔ぶれの系譜が見て取れます。またG. ガブリエリはネーデルランド楽派最後の巨匠O. di ラッソにも師事し、大きな影響を受けました。
シュッツはヴェネツィアのG. ガブリエリのもとで伝統的な対位法の手法や、コーリ・スペッツァーティ(複合唱様式)などを身につけたものと思われます。G.ガブリエリとシュッツの師弟関係は幸福なもので、シュッツは「彼のほかに師はいない」と言い、ガブリエリは死に際して、シュッツに形見として指輪を贈るほどの関係でした。
再びヘッセンへ
1612年、ガブリエリの死を受けて、27歳のシュッツはドイツのモーリツ伯のもとに戻ります。伯のもとでオルガニストとして働いたこの頃、シュッツは1歳違いの同時代人ヘルマン・シャインと交友を結んでいます。
1616年トーマスカントルとなり、バッハの偉大なる先人となったシャインは44歳でこの世を去ります。この友の死に際しシュッツはモテット"Das ist je gewisslich wahr"「それは確かなまこと」を作曲しています。
2.成年期
ドレスデンへ
1614年モーリツ伯のもとに、ドレスデンのザクセン選帝侯ヨハン・ゲオルグ1世から手紙が届きます。そこには「伯のもとにいるハインリヒ・シュッツという音楽家をうちに貸してほしい」という内容が書かれていました。
初めは6か月の期限付きでした、これはモーリツ伯も承諾しました。しかし2回目、今度は2年間雇用させてほしいと申し出がありました。ここからモーリツ伯とヨハン・ゲオルグ1世による、「シュッツ争奪戦」が始まります。笑